そんな時期が続く日々

日常についてポチポチ綴る予定。

コーヒーの木につく貝殻虫。

元気な時は昔のことを思い出す。今では笑って話せるようなこと。

人間ってみんな自分語り好きだよね。自分も例に漏れず。

記憶は脳みそが勝手にいっぱい捏造してる。

 

 

 

幼稚園児だったころ、友達から言われて園に持ってきてはいけないものを持ってきて注意をされたことがある。それぞれが別々に話を聞かれた。自分は相手の子の後で注意を受けたが、どうも自分が自主的に持ってきたと言う話になっていた。世の中は不思議ことがあるもんだ。

そんなことばかりではなくもちろん楽しいこともあったし親友もいた。けれど、毎朝行きたくないと泣いていた。泣いて、引きずられ、しばらく職員室で園長先生とお喋りして同じ組の子が迎えにきて「一緒に遊ぼう!」といわれ頷く。お昼寝から起きれば、何もないのにとてつもない悲しさやら不安やらで泣いていた。数十分後にはご機嫌だった。

塗り絵と鉄棒と読書が好きな子供。

 

自分が小さな頃に離婚した両親。

別れた後、数年に1回ほど父は自分達と母がいる所へ何かしらを持って顔を出していた。もう来なくなって10年ぐらいは経つかもしれない。

最後に来た時はデスクトップのPCを持ってきて『繋がらないからまた設定し直して持ってくるわ』と言って帰っていった。設定は難航してるんだろう。どっかで死んだのかもしれない。

そんな父がとても好きだ。たまにしか来ないのが、きっと、また良かった。

鬱病だったらしい父はおそらくほぼ家にいた。自分が保育園を嫌がっていたある日「そんなに嫌ならいかなきゃいい」と母に言った父。その日は自分と父だけが家にいた。それがとても嬉しかったのを覚えてる。髪の毛を縛って!と言えば、「上手にはできない」といいながらも慣れない手つきで縛ってくれた。お父さんスイッチを作りたいから紙を丸く切って!と言えば、両面に商品が印刷されたツルツルした紙質の広告を丸く、何十枚も切ってくれた。

一度だけ昼間に園に迎えにきてくれた日があった気がする。ま、これは夢かもしれない。

家が別々になる日、父と一緒にいたいとぐずった。幸い住んでいた所と引っ越し先は近かったので父に連れ帰られ、元の家で一緒にお風呂に入った。結局母が恋しくなり泣いて母の元へ帰されたらしい。

父の部屋はいつも暗くて、汚くて、パソコンの前のクルクル回る椅子に座って回るのが好きだった。家が別々になるその日は全部の部屋が暗くて唯一テレビだけが光っていた。

自分の中で父は、お世辞にも綺麗で清潔とは言えず真っ暗な部屋にいて、理屈っぽい人だった。でも、自分が高校生の時、兄が園児だった頃の運動会のビデオが出てきた。そこに親子競技に出る父が映る。太陽の光を浴びて兄の手を引く父親をする父。よくわからない衝動で涙が出て自分でも驚いた。そんな自分を見た母も泣いた。なんとも言えない場面が出来上がった。

心の中は真っ平らで悲しくも羨ましくもなかったのに。

この時、よくわからないままに流れる涙を初めて体験した。

 

引っ越してしてしばらくしたらある日、父が来て母、父、兄、自分の四人でps2のゲーム「ICO」をプレイした日があった。自分は見てるだけだったし、眠くて夜中までは起きていられなかった。その日は寝る時に父がいた。起きてもいたような記憶がある。

とびっきり楽しかった思い出が詰まっている。だから「ICO」は自分が一番好きなゲームだ。

 

 

小学生低学年の頃に1歳上のいとこと2歳上の子からいじめを受けてた。

正直いじめられてたっていう感覚はなかった。ただ、ぼんやり母に申し訳ないような気持ちでいた気がする。あと普通に嫌だった。

でもいとこの顔が好きだったし一緒に遊んでくれるならいっかとも思ってた。平日がどうであれ休日は楽しく遊んでくれる。2人きりだといとこはいじめてはこなかった。

2歳上の子と学校ですれ違った時に笑顔で手を振られて唖然としたのと少しの怒りを感じたのを覚えてる。

綺麗なものには棘と、それに気づかせず触れさせる求心力があるんだと恐ろしくも思った。

その子にしろ、いとこにしろ。

 

同じく小学生低学年の頃のこと。何が原因かはわからないけれど「みんなで食べる」と言う行為が手が震えて吐き気がするほど苦手になった。給食の時間になると手が痺れて頭がぼんやりとしてくる。

それと同時にその時の担任を思い出す。その人は今現在も同じことをしたら問題になるような人だった。

授業に遅刻した子がいれば「お前のせいでみんなの時間が〇〇分無駄になった!」と大声で怒鳴りつけた。同級生が授業に遅れた時間より担任が怒っている時間の方が長かった。

給食を残すようなら掃除の時間まで食事をさせた。

宿題をよく忘れる子には授業の半分ぐらいを使って詰って机を叩き、蹴飛ばし、捲し立てていた。嫌なことでもあったのか。

 

さらに思い出す2つのこと。

掛け算の九九を覚えるまで居残りさせられる期間があった。居残りをしなければいけない子は残り2人。片方は私の親友。客観的に見れば内気で要領が悪い子だった。とても仲が良くて学校でも下校時も高確率で一緒にいた。

その日、たまたま他の子から「一緒に帰ろう」と言われていたので居残っていた親友を少し待ってから、結局誘ってきた子と帰った。

次の日、担任に呼ばれて何かと寄る。

「夕方に子供を1人で帰すわけにはいかない。昨日はもう1人いたから一緒に帰らせたけど、次からは終わるまで待ってて」という旨だった。親友はよく居残りをさせられていて、その度に私は待っていた。親友だし好きだったから。たった一度他の子と帰っただけ。たまには他の子と、そう思っただけ。心配じゃないと言えば嘘になるし、少し後ろめたくもあった。

1人で帰せない理由が、担任が言った以外にあることは今でこそなんとなくわかる。それでも小2にとっては理不尽で、大人の言うこの内容に驚いた。親友のことは好きだけれど、自分はその子だけのためだけに生きてる訳じゃない。他の子とだって喋りたかった。

そんな担任は不登校気味だった自分に「普通に学校行って、普通に勉強をして、普通に就職して、普通に結婚して、そうしてお母さんを安心させたいでしょ?」と言った。当時、みんなと同じように学校に行きたいのにそれができなかった自分にとっては地獄に突き落とされるぐらい傷付く言葉だった。

ま、別に根本が悪い人とかではなく、そう言う時代とか環境で育ったんだろう。

めでたく2番目に嫌いな人間にランクインしている。

 

 

 

2番目に嫌いな人間として同列2位を冠するのは中学1、2年の担任。

要約すると「普通の人生を送りたいでしょう?」と、先ほどの担任と同じ人生観を持つ人だった。全く同じことを言った。まるで人生の幸せと生きる意味は「みんなと同じ」「普通」にしかない、それ以外あり得ないと言われた気がした。できない自分を全部否定された気になった。

なんともピンポイントで地雷を踏んできた担任は何故か3分の2年間を受け持った。3年だけは別の教師で心底良かったと思う。

3年の時に他の先生から「〇〇先生、あのあと手術がいるような病気をしてから考え方が変わった」と聞いた。

だからなんだと言うんだろう。その人の人生に対する考え方が変わったからと言って、言われたことが記憶から消える訳じゃない。いじめてきた人間が「いじめてごめん」と謝ったから「うんいいよ!」とはならない。

 

 

 

約20年の人生なんて、置かれた世界の大半が学校だ。そんな中で真っ当に学生ができてたのなんて高校生ぐらい。同時に兄が苦手じゃなかったのも園児の時を除いたら高校生の時ぐらい。

不登校を理由に詰られ、全否定されまくった日々だった。学校に行った方が絶対に楽だったろうにな。

帰るや否や自分がいるかを探し、学校に行ったか確認をする。行った気配がなければ、言葉と行動で暴力を振るう。兄の気がすむまで。いつまでかは覚えていないが何年か続いた。思春期もあったのだろう。

苦し紛れに「いじめられてたから」と、原因になったかもしれないことを言ったら「気づけなくてごめん」と抱きしめられた。気持ちが悪くて仕方がなかった。自分からしたら、いじめをしてきた人間と兄とを比べれば同等か、むしろ兄の方が悪辣だと思うほどの言葉の暴力と人格否定だった。

母がいる時はもちろん母は止めたが兄は止まらなかったし母がいない時の兄は更に酷かった。母は「あんな風に怒るのはあの子なりに心配してたから」としばらくしてから自分に言ったが「迷惑をかけた人間全員に土下座してこい」とか「学校に行かなきゃ殺す」と包丁を首に突きつけてきたそれを心配と呼ぶのだろうか。心配の仕方が包丁を突きつける、なんて、道徳の時間には習わなかったぞ。

 

自分がリストカット自傷をし始めた頃、母は怒りながらも最終的に「そう言う時期。みんな通る道」とよく言っていた。流石に今はもうこれは言わない。今思えば、母は母自身にに言い聞かせてたのもあるんだと思う。

「そう言う時期」じゃ収まらなくなったあたりから、自分の「そう言う時期」はいつ終わるんだろうと考える。

兄の「そう言う時期」は私が不登校から脱出できるようになる数年前に終わった気がする。おそらく人のことより自分のことに重きを置ける思考にシフトチェンジしたんだろう。

きっと小学校の頃いじめてきた子も「そう言う時期」だった。その時の担任も「そう言う時期」だったのかもしれない。中学校の担任も、「そう言う時期」と言った母も。

自分がこうなる選択をしてきたことを全部「そう言う時期」に任せる訳じゃないけれど、「そう言う時期」を自分にぶつけた彼らはその内容を少しだって覚えてるんだろうか。「そう言う」こともあったね、と笑って話すんだろうか。未だに「そう言う時期」から抜け出しきれない自分はどれぐらい彼らの「そう言う時期」の影響を受けたんだろう。

 

後悔はない。したら、それこそ申し訳ないし目も当てられない。それに、自分なりに考えて選んだから。

でも考えない訳じゃない。考えても仕方ないこと。

もし園を嫌がることなく行っていたら。

もし父と母が離婚しなければ。

もし小学校に行けていれば。

もし兄と折り合いが悪くなければ。

ふとした時に「やっぱり死んだ方がいい」と思わなかったのかもしれない。

 

 

 

コーヒーの木についた貝殻虫。

店にあった時からすでに居たから、買った翌日から駆除して毎日もう居ないって確認してたのに、今日ふとみたらまだ居た。

居なくなったと思ってたのになあ。

 

もう気にならない思い出話になったと思ったのになあ。

うまく生きれると思えたの高校だけだったねって話。

おかげで他の人が得難いレベルの類友な親友兼同居人と出会えました。エスケープと自傷癖にも理解があります。ヤッタネ。

 

 

 

どこが日常綴るブログやねんて。

ではまた。

 

 

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